『神の関心』            使徒行伝 7:9〜16

 2万人からなる初代教会には、教会内外からの諸問題がありました(第5,6章)。今日のテキストには、伝統を固く守っていたユダヤ人が、ステパノに議論を仕掛けたのですが(6:9)対抗できず(6:10)、彼らは人々をそそのかして(6:11)偽りの証人を立て(6:13)、議会にステパノを訴えました(6:12)。その内容は、モーセの律法の軽視と、聖なる神殿を無視したというものです。そこで彼は、アブラハム、ヨセフ、モーセ、ダビデなどの事例を引用して弁明したのです(第7章)。今日はヨセフを中心に、タイトルにあるように「神の関心」について見てみましょう。

T.人々の救いに対して
 ヨセフは父ヤコブに甘やかされ、我がままな子供として育ちました。そのため兄たちから妬まれ、エジプトに売られてしまいました。彼はエジプトにおいて苦労を強いられ、それが良き訓練の機会となりました。さらに、彼の夢解きがパロ王に認められ、エジプトにおける大飢饉を預言し、大臣に抜擢されました。飢饉の折、イスラエルの父の家も食べることに窮し、彼の子たちが食糧を求めてエジプトにやって来ました。父は大臣であったヨセフのツテでエジプトに移り住み、救いを得たのです。ヨセフはイスラエルの民の救いのために大いに用いられました。
 同じようにステパノも初代教会の役員に抜擢され、奇跡としるしを行い、ユダヤ人から妬まれ、議会に訴えられ、ついに石打ちの刑に処せられました。その彼の死によってパウロが救われたのです。神は一人の人の、今置かされている立場を用い、誰かが救われることを切願し、関心を払っておられます(14)。

U.人々の苦難に対して
 アブラハムはハガルによるイシマエル誕生という失敗を犯しましたが、彼が100歳にしてサラとの間にひとり子イサクを与えられ、神の約束が成就しました。またモーセが40歳の時、同胞の民の救いのために立ち上がって失敗し、ミデアンの地に逃亡し、羊を飼うことを通して忍耐を学び、徹底して人ではなく神に寄り頼むことを学び、イスラエルの民を救いに導きました。神は、アブラハムやモーセの苦難に関心を払われていました。ヨセフに対しても「神は彼と共にいまして、あらゆる苦難から彼を救い出し」(10)ました。私たちの苦難に対しても同じです。しかし自分が苦難に遭遇すると、自分だけがナンデこんな目に合うのかと呟き、自暴自棄に陥ることがあります。そのような苦難の時こそ、「神は共にいます」との約束を思い起こしたいものです。ヘブル人13:5参照。神は、私たちの苦難に対して大いに関心を払っておられるお方です。

 今、苦難を強いられ、孤独を覚えておられる方があるでしょうか。神は私たちのどのような苦難に対しても深く関心を払い、それだけではなくその苦難を通して人々の救いのために、私たちを用いるのです。神はいつでも、私たちと共にあることを信じましょう。それが信仰者の歩みです。  
 

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